if you can




















見かけた相手も自分もキャッチャーであることを考えれば、そう珍しい偶然でもなかったかもしれない。

「あ」

けれどそう思う前に、偶然への驚きは音になって秋丸の口から出ていた。
静かな書店の棚の間にその声は相手の耳まで届き、真っ直ぐ手元に落ちていた視線が音のした方へと向けられた。

制服の阿部は、スタンドで見たユニフォーム姿の印象と少しもぶれなかった。どこにも柔らかさがない。硬い目と表情と、雰囲気。

ただ、秋丸の顔に見覚えがあると思ったらしい表情が、誰であったかに気づいて目を見開くと、緊張をゆるめた。そのことに、秋丸はなぜかほっとした。春大会の、バックネットを挟んでのチームメイトと彼の様子を見ていたからかもしれない。あの時の阿部は、1つ上の榛名をあしらうような生意気さを見せながら、かわいそうなぐらいに緊張していた。

榛名から、シニア時代のバッテリーの話は聞いていた。1つ年下のキャッチャー。口うるさくて、生意気で、可愛くない、タカヤ。

「ちわっす」と、発音を濁すように小さく挨拶して、阿部は軽く頭を下げた。ちゃんと礼儀を見せてくれるそれが、秋丸はなんだか嬉しかった。やはり、榛名とのやりとりが印象深いからだろうか。

「いい本あった?」

阿部が立っている辺りの棚には、野球関係の本が並んでいた。選手の自著や技術本よりも、解説者やスポーツ記者のチーム論や分析などの専門書を多くそろえているこの書店を、秋丸もよく利用していた。

駅に隣接したショッピング・ビルの中の本屋とは侮れない。多分、店長か店員に野球好きがいるのだろう。

そうと知っている秋丸の問いに、阿部は驚いたように瞬きした。いや、見直したように、だろうか。確かに、チームメイトの言う通り、可愛くない。好意の範疇を出ることのない程度のものだけれど。

再会したかつてのバッテリーのことを、榛名が何回も「可愛くない」と言っていたことを秋丸は思い出した。「可愛くない後輩」なんて、「可愛い後輩」と言っているのと同義語だ。

榛名が「タカヤ」のことを可愛がっていることも、当然のように自分と同じ高校に入学すると思っていたことも、秋丸は知っている。だから、春大会で初めて彼を見た時に、驚いた。

榛名を前にした彼の目に、表情に。

「よく、来るんですか?」

距離を測りかねるようにぎこちなく尋ねる声に、秋丸ははっとして応えた。

「ああ、うん。ここ、意外と本の揃えがいいよね」

「はい」

素直に頷く返事に、秋丸るはまた少し嬉しくなった。榛名との会話は、取り付く島のない感じだったけれどいつもそうなわけではないらしい。

「今日は、練習ないの?」

「試験期間中なんで」

「ああ、そっか。どこも一緒だよねぇ」

自分もそうであったことを、秋丸は思い出した。

「野球だけやってられればいいけど、そういうわけにもいかないもんなあ」

独り言のように言いながら、秋丸は阿部の隣に並んで本棚に手を伸ばした。少し厚みのある投手関連の専門書。値段が高いので、欲しいと思いながらも随分前から悩んでいる。

「それ、買うんですか?」

「欲しいんだけど、ちょっと高いよね。迷ってるんだ」

「そこの図書館に入ってますよ」

駅から少し離れた図書館の方角を指差すように、阿部は人差し指を棚に向けた。

「え! ほんとに!?」

場所柄も忘れて問い返してしまった秋丸に、阿部は視線だけ向けて、言い足すように口を開いた。

「俺が購入希望出したんで。読みたかったけど、高かったから」

「そうか、図書館にリクエストか。考えてみなかったなあー」

素直に感心する秋丸がおかしかったのか、阿部の口元が少しだけ上がった。バカにする感じじゃなく、いい意味で笑った顔に引き寄せられるように動いた視線が、開かれている本の見覚えのあるページに止まった。

「あ、その本、良かったよ。持ってるから、かそうか?」

お礼のようにそう言ってしまってから、秋丸は驚いて目を瞬く阿部とその他のことに気づいた。同じ高校の先輩後輩ならともかく、秋丸と阿部はほとんど見ず知らずと言っていい程度の関係だった。

天才投手のかつての捕手と今の捕手という立場さえなければ、互いを意識することさえなかっただろう。阿部にとっての秋丸は、まさしくそれでしかない。榛名の今のバッテリー、ただそれだけの人間。

「って、ごめん、そーゆうんじゃないよな。うん、ごめん」

分をわきまえない人間のように押し付けてしまった好意が恥かしくて、秋丸は慌てて手をふった。また、目を瞬いて、阿部はふいに力が抜けるように表情を変えた。

わ、笑った。

顎をわずかにひいて、音もなくくしゃりと笑った一瞬の表情に、今度は秋丸が目を瞬く番だった。

「あんたみたいな人が先輩だったらよかった」

思わずこぼれた本心なのか、あまり面識のない秋丸を「あんた」呼ばわりしたことに、阿部は気づいていないようだった。

「それ、あいつには言わないでね」

冗談に笑う形をとって返すと、失言をさとったように阿部の眉間に皺が寄った。ちょっと子供っぽくって、「ああ、可愛いな」と思える表情だった。もしかしたら、後輩になったかもしれなかった相手に、秋丸は妙な親近感と関心を自分が持っていることを自覚した。

バッテリーの相手が、可愛くて仕方ないように話してきかせる「後輩」を、いつの間にか秋丸も自分の後輩のように思っていたのだと。

1つ年下の。口うるさくて、生意気なリードをして、可愛くない、タカヤ。

そう話す時の榛名の自慢げな目とわずかに上がる口元を、その表情を、知っていたら。彼は、秋丸の後輩に、なっていたのだろうか。

榛名を前にして、もう二度と傷つけられないように警戒するみたいに、きつく唇を引き結んだり、しなくなるだろうか。

「タ……」

榛名の呼び方につられて、下の名前で呼びそうになって、秋丸は一旦言葉を飲み込んだ。

「あ、阿部、くん……!」

おどおどしているのに妙に力強い声が、阿部の名を呼んだ。阿部と一緒に、秋丸も声のしたほうを振り返った。

書棚の角で、茶色い髪を四方に跳ねさせた少年が、胸の前に浮かせた両手を所在無く動かしながら阿部を見上げていた。

「あの、み、みんな、もう行くって」

「ああ。わかった」

心得た様子で、阿部は頷いた。阿部が手にしていた本を棚に戻し、「じゃ、失礼します」と礼儀正しく秋丸に断る。「ああ、じゃあ」と急な幕切れに曖昧に返事をかえす視界の端に、ほっとしたように下がる肩とあからさまに安堵する表情が映った。

立ち去る阿部を見送るように向けた視線が、少年と正面からかちあった。下がった眉が、嘘を咎められたようにさらに下がって視線を逸らす。彼が、今ここに来たのではないことを、秋丸は直感した。

秋丸と阿部が並んで会話する後姿を、彼は、声をかける前から見ていたんだろう。

呼び止めたい衝動が、急にわきおこった。

けれど、それを制するように、ふいに阿部が振り返った。まるで、秋丸が見送っていることを知っているように。

「今度、貸してください。あの本」

ぺこりと、首を傾けるようにおじぎする阿部を見上げた少年が、子供が真似をするみたいにぺこりと秋丸におじぎをした。2人は秋丸の返事を待たずに、通路へと出て行った。

去り際にわざわざ置いていった言葉。それは社交辞令に違いないのに、そうではないような気がした。

秋丸は手にもったままだった本を本棚に戻した。明日から毎日、阿部が見ていたあの本をカバンの中に入れておこう。

そして、また偶然会えた時に、カバンの中から今日の続きみたいに本を取り出したら、きっと彼はびっくりして目を瞬いて。そしてまた、音もなく、子供みたいに笑うだろう。


その時に自分のバッテリーが隣に居たら見物だなあと。ちょっと可笑しく想像しながら、秋丸は本屋を後にして図書館へ向かった。